雨は止んでも、また降ってくる

アラサー既婚・子なし女の雑記

遺書について

   Coccoの「遺書。」というタイトルの曲の歌詞が好きです。いつか余命宣告されるようなことがあればあれぐらい綺麗に、伝えたいことを全て伝え切りたいと思います。でも人間なんて誰がいつ突然死ぬかも分かりません。だから、もし死後に伝えたいことがあるのなら、遺書は生きている間に、時折更新しながら、いつでも書いておくべきなのかなとも思います。

 

   私の母親は四十七歳のときに自殺で亡くなりました。遺書もありました。二枚あったのですが、それはとても簡素なものでした。私が高校の勉強で使っていたノートの余りのページを使って書かれたもので、一枚は三行の文章、もう一枚は用紙いっぱい使って書かれた一言「ごめんなさい」でした。こんなんだから、遺書の内容なんて読み返さなくても全部覚えています。なんなら筆跡も頭にイメージできます。きっと痴呆にでもならない限り、死ぬまでずっと忘れることはないかと思います。

   四十七年の終わりに伝えたことが、たった三行と「ごめんなさい」です。その現実は時々今でも私の虚しさを増幅させます。

    でも、本当は違うのです。こんな簡素な遺書なのに、母の部屋のゴミ箱には何枚も書いては丸めて捨てられた紙切れが残っていたのです。それはもっと伝えたいことがあった証拠だと私は思っています。でもきっと、伝えたいことを文章にまとめて残す気力が残っていなかったのだと思います。うまく書くことができなかったのだと思います。こうやってブログを書くことと同じように、文章を書くことにはエネルギーが必要です。

 私は遺書の内容とともに、ゴミ箱に何枚も書き損じた紙切れが残っていた事実も大切に記憶に残しています。少しだけ、救われるような気がするからです。

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   一生懸命考えて書いてくれた遺書、父が母に贈った婚約指輪のダイヤで作られたネックレス、そして母のお骨。もし、これから考えられる順番通りに、祖母が、叔父が、父が亡くなったのなら、私は母の全てを解き放とうと思っています。死者が残した物は、遺された者のためにあるから。でも、私はそれを必要としていないのです。お骨の入った石に祈りを捧げることも、私にとっては無意味なのです。そして石の壁に閉じ込められた母がかわいそうだと思うのです。だから、自由にさせてあげたくて、もう何のしがらみもないように、ずっとずっと楽でいて欲しいのです。

 私はいつかそれを実行するために、生きているのかもしれません。

  

 もう頭の中にいっぱいだから、何もいらないのです。簡素な遺書の内容と、ゴミ箱に書き損じて丸められた紙切れが残っていたという事実と、母と過ごした思い出で、もうたくさん。これ以上、もう何も必要がないのです。